体と心と魂というのは、どのように関係しているの?
魂にも成長って考え方があるの?
魂にも年齢があるの?
死んだ後に魂って、どうなるの?
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疑問を持たれた方たちのスピリチュアルに対してのヒントになればと思っています。
サイト管理人、藤原 誠了と申します。
このページは以下の項目でご紹介しています。
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スピリチュアル的な観点での体・心・魂 ①体・心・魂の三身一体という考え方
すべての人が共通に理解したらいいなということをお話させていただきます。
私たち人間は、体(ボディ)があって、その体(ボディ)の中に魂(命)という存在があって、そこにまた心(マインド)という三位が一体となり、ここに存在しているようです。
この三身というのは一体なので別のものでありながら、同時に重なり合っている。
ですから、どれ一つとして雑に扱ってはならない。例えば乗り物である・入れ物である体(ボディ)が病気になったり、ケガをすることも自分や他者によって自分を傷つけ、心(マインド)を弱めてしまうことも、それは共にある魂がいくら輝いていたとしても、その二つが弱まれば、魂(命)が本来やるべき働きを果たすことはできないのです。
このようなことから、この乗り物である体(ボディ)も体(ボディ)の中に共にある心(マインド)のケアもとても大切になってくるのです。
心と魂というのを説明すると
心(マインド)の存在というのは、今世生まれてきて、体(ボディ)を使いながらたくさんの経験の中で生じてくる心の波(感情)、自身が感じる快や不快、うれしい・楽しい・悲しい・悔しいといった目には見えない内にある存在。
魂の存在というのは、様々な刻まれた経験を積み重ねてきたものを、今回この体(ボディ)と今あるこの心(マインド)が持っている今回の生の中の経験値によって獲得されてきた情報をもつ存在。
前世からの脈々と繋がっている魂の長い流れの中での刻まれてきた経験値、その存在が私たちの内側にいて、その経験値を土台にしながら、その上に心(マインド)が乗っかって、その心(マインド)のコントロール、もしくはサポートを行っている。
スピリチュアル的な観点での体・心・魂 ②魂の成長の仕方
魂の成長は、らせん状のスパイラルの状態で上にずっと伸びていくイメージ。
その登り坂の傾斜角度は、その魂によって急、鋭い人・緩やかな人と人それぞれです。
魂の成長が急速な人は、登り坂の角度が急で鋭い。
魂の成長のゆっくりのペースの人は、登り坂は緩やかである。
それは、それぞれの魂で違ってくる。
魂の成長段階を例えて説明すると、自分はよく人間の成長過程と照らし合わせてみるようにしている。
赤ちゃん・保育園生・小学生・中学生・高校生・大学生という風に・・・山の麓の登山口付近を赤ちゃん、頂上に近づくにつれて保育園生・小学生・中学生・中学生・高校生・大学生と続きます。
例えて話すと、自分の食べたいものは、自分で食べ、それを分け与えることがなかなかできない・自分のやりたいことをやる段階は、先程の成長段階でいうと保育園生の年少さん。そういう段階の人を見るとき、自分は「あぁ~魂の保育園生さんだなぁ~。」と見るみたいな(笑)。
この時には、こういう風に困っている人を助けてあげる。
たくさんの物があったときには、惜しみなく分け与えるというような段階の人に出会うとき、「随分と成熟して魂さんだぁ~。」と見るのです。
魂は、このような成長過程でそれぞれの経験を積みながら山頂を目指すわけです。
魂の成長のイメージは、これでお分かりになられたと思います。
スピリチュアル的な観点での体・心・魂 ③体年齢と魂年齢
人間は体(ボディ)・魂(命)・心(マインド)の三身一体なので、体(ボディ)が持っている実年齢と内側の魂年齢とは同じではない。
体(ボディ)年齢は、60歳であっても魂の成長スパイラル段階が小学生の段階の人もいる。
そのような人の場合、体は60歳で人間界では、いろいろな人生経験を経て、ある程度の分別ができると見てしまいがちですが、その人の行動を観察していると、誰かを攻撃したり、困っている人を見て見ぬふりをしたりという姿が見えたりする部分がある。
内側の魂年齢は。幼いという風になり、これがスピリチュアル的な年齢の見方となってくる。
その人その人を見るときに私たちは、体(ボディ)年齢では判断せずにその内側に入っている魂がどれだけの経験をしてきて、どの成長段階にあるのかという視点を持つことが重要です。
このような魂の成長段階を見ていくことが、今後、私たちが本来の生き方をするために大変重要なのです。
未来においては、もしかしたら、さらに実年齢ではなく魂年齢で、その人たちをお互いに見ていく時代もやがて来るでしょう。
そして、この視点を持つことは、今の私たちの大きな助けにもなります。
例えば、介護をしているおばあちゃんがたくさんのわがまま放題言っているとします。
その時に70年生きてきて、こんなことが分からないという考え方ではなく、このおばあちゃんの魂年齢は幼いからこんなことを言ったら困るということがまだ分からない。
そう悟ることができたら、その時、見えている景色(とらえ方)が変わり、怒りやストレスの度合いは変わります。
保育園・幼稚園の子に例えば、「バーカ!バーカ!」と言われても、大人にそう言われる時ほどに怒りや悲しみは生まれないでしょう。
それは、なぜかというと、私たちの中にあの子はまだ幼いから仕方ないという見方をしているからなのです。
スピリチュアル的な観点での体・心・魂 ④魂の成長方向は、愛の方向に向かっている
魂のスパイラルはどこに向かって、成長の矢印を向けていっているか?というと、私たちが暮らしている世界の言葉でいうところの愛の方向に向かっていっています。
愛には、狭義の愛と広義の愛がありますが、私たちがよく使う愛よりも、もっともっと広大で深淵な愛を指します。
この世界で暮らしている私たちの中で認識している愛というよりも、さらにさらにもっともっと大きな意味での広範囲の愛なのです。愛を北極星のように目指して、すべての魂のスパイラルの矢印の方向は向かっている。
その方向というのは自然界や私たちの体にも観ることができます。
植物で例えると、光(太陽)の方向に葉を伸ばしていきます。ほとんどの植物が誰に教えられたわけでもなく、組み込まれている。
私たち人間も、体(ボディ)にできた傷、もしくはケガした場所というのは、大抵の傷は、ほっておくと傷口には、瘡蓋ができ、やがては新しい皮膚がその傷を塞ぎ治癒するという回復の方向に向かっていく。
逆に言うと、その矢印の方向に向かっていってないものもあったのかもしれませんが、生き残ったものは、どうやら皆、その特性があるということにも気づくことになります。
命の矢印の方向、そこにも私たちが目指す北極星 愛 を観ることができます。
そして究極の愛の方向というのは、表現するのは難しいのですが、限りなくゼロに近づいていくような・・・でも限りなくゼロに近づくのだけれどもゼロに到達できない・・・(笑)
そのような到達点なので、終わりがあるようでない。
その永遠のずっとが続いていく。
その頂点(限りなくゼロに近いゼロにはなれないという頂上)に向かって、それぞれの魂のスパイラルは伸びているととらえるのが分かりやすいかと思います。
スピリチュアル的な観点での体・心・魂 ⑤魂が経験を終えて還る場所
もう一つの視点から言うと、スパイラルが伸びていって目指している北極星のような、すべてのすべての愛という存在は、違った尺度から観ると、小林正観さんは、タコを使って、その全体像を説明しています。
タコの姿をイメージして、タコの足の吸盤それぞれを私たちの魂の存在ととらえる見方です。
1つ1つ吸盤から得られた情報は、タコの脳(頭)に情報として集められていき、タコは自分の状態や状況を認識しています。
吸盤の1つ1つが情報吸収媒体なのです。
私たちの一人ひとりの魂の経験値・情報というのは、ホストコンピュータのような、すべてのすべてのその愛の存在のところに吸い上げられているようなのです。
一人ひとりの魂の経験というのは、実はすべてのすべての大本(愛の存在)への貢献を常にしているということになるわけです。
また違った表現では、
大きな水の中の、例えばお風呂の中に溜まっている水が愛のすべての存在だとします。
私たち、一人一人の魂は、その水の中の一滴であり、1つの一生の経験が終わったとき、その一滴の水がお風呂の中に戻る。
戻って、その生涯で経験した経験値・情報をお風呂全体の水に還元する。
そのお風呂の全体の水にその経験値・情報は、還元されて水全体の情報への貢献ということになる。
しかも、水でいうと、そのお風呂の中にもいろいろな水の濃度があって、濃度によって、その存在する層が変わってくるようです。
海の中の海水の濃度に分かれて海水の層が存在しているのと同じです。
例えば、10の濃度(経験値)を持って今世に下りた魂(水)は、いろいろな魂の経験値を積んで15の濃度になったとします。その時に還る場所は、15の濃度の集まっている魂の場所(濃度の水の層)に還っていく。
では、50の濃度を持っている魂(水)は、どうかというと、50の濃度を持っている魂の場所(濃度の水の層)に還るようなのです。ですので、同じ大きな器(お風呂)の水に還るのだけれども、どうも還っていったときには、同じような濃度の魂(仲間)たちのグループのところに還る。
魂それぞれの階層とでもいうのでしょうか。魂の濃度=(経験値・成熟度)によって帰るところは違ってくるが、そこには、隔たりや壁はなく、うまく溶け合って、お互いの位置に留まっているようなのです。
このように魂(水)の濃度(経験値・成熟度)によって還る場所は、ある程度決まっているようなのです。
それを一般的には、極楽浄土と地獄、天国と地獄と表現していたのでしょう。